講演録:頓悟漸修という生き方(玄侑宗久氏)

 禅は六祖の後、「頓悟」「漸悟」という二つの潮流に分かれるのだが、これは禅の教学的な問題というより、人生上の問題である。現代における禅的な生き方を考えてみたい。

①始覚思想(北宗)・神秀(左側)
・神秀は唐の時代に玄奘三蔵と並び称せられるだけの立派なお坊さんだった。しかし、禅の歴史では、荷沢神会以来は慧能の方が正統と扱っている。
「この身は悟りにいたり
 心は鏡のように明らか
 でも、塵がつきやすいので
 毎日塵を払うように修行する」
・塵を払うために努力するなら競争が必要になる。今の世の中は”神秀”寄りといえる。

②本覚思想(南宗)・慧能(右側)
慧能は無学文盲で南の野蛮人だったと言われる。達磨から禅の歴史では、学問なんか関係ないという極端な発想である。人は元から仏であったという方向付けがされた。
「菩提に木なんかない
 鏡の台なんかあるのか
 本来ムイツブツ
 どこに塵がつくのか」

 

敦煌文献
慧能の弟子である荷沢神会(かたくじんね)は達磨さんが南インドから来たので、南宗が正統であるといった。
敦煌文献の発見から禅の歴史が1900年代に明らかになってきたが、達磨自身は”学問”も”修行(座禅)”も大事であるとしている。荷沢神会以降にねつ造されたと考えられる。

無事や平常心
・無事とは「外に何も求めるな」という意味。
・平常心とは「平常なことが一番良い」という意味。
・「そのままでいい」というのは、人に元気を与える事が出来る。でも、雲を払うためには、何かを求めて本講座に出かけるのも必要。

 

ありのままでいいのか、精進努力するのか
②について
・馬祖道一は「現状の自分をそのまま肯定する」という方向で説いた。馬祖道一の語録が弟子達にまとめられて公案禅となり、後の臨済宗の流れになる。こちらは現在を肯定するという面で元気になる。
①について
慧能の弟子だった石頭希遷は、慧能の死後に青原行思に師事し、「本来の自己(彼)と今のあなたは違う。本来の自分に目覚めなければならない。」と説き、後の曹洞宗のルーツとなった。だが、こちらは今を否定することになるので暗くなりやすい。
・ちなみに両者は仲が悪いということはなく、弟子の往来があった。どっちが正しいと考えない方がよいと言える。


曹洞宗臨済宗
①からは計画性や目標という傾向がある(曹洞宗
②からは統一性のないという傾向がある(臨済宗

鏡と無意識
芭蕉が仏頂禅師に参禅していたとき、「かわず飛び込む水の音」が出てきた
。無意識の中に命の躍動する音が聞こえたというのが、芭蕉の考え。
無為自然という老荘的な考えになっていく。

儒教道教
・①は儒教的な考え、秩序を重んじる。
・②は道教的な考え、和合が第一をいう考え。競争とは馴染まない考え。

白隠禅師
・座禅和讃は若いときに書いたものだが、冒頭「衆生本来仏なり」とはサービスしすぎと晩年後悔している様子が伺える。
・厳しいことを言わないと弟子は育たない。自分で谷底まで水をくみに行くことで初めて、水のおいしさが感じられる。


趙州和尚の問答
「趙州 南泉に問う、如何なるか 是れ道? 泉云く、平常心 是れ道。 州云く、還って趣向すべきや否や? 泉云く、向わんと擬すれば即ち背く。」
「道とはどんなものか
 平等心が道だよ
 どうしたらつかめるか
 つかもうとおもうとダメ
 手に入れられないならどうしてわかる
 わからないというのも無自覚といえる。わかるとかわからないとかが離れれば良い」
・目指すべき方向付けは自覚に行う必要がある。だが、そのままでは見つからない。それを忘れることに発見することができる。
・自己肯定は大事であるが、鍛錬しなければ成長しない。だから、公案禅が出てきた。


百丈野狐
・『無門関』第二則に「百丈野狐(ひゃくじょうやこ)」という公案がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーWikiよりーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 百丈が説法していたとき、一人の老人が説法を聞いていた。 ある日老人は退かず一人残ります。百丈は不思議に思い、「一体、お前さんは誰か」と声をかけた。
老人は「私は人間ではありません。大昔この山この寺の住職として住んでいた。ある時、一人の修行者が私に質問をした。
『修行に修行を重ね大悟徹底した人は因果律(いんがりつ)の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?』。
私は、即座に、
『不落因果――因果の制約を受けない』と答えた。
 その答えの故にその途端、わたしは野狐の身に堕とされ五百生(五百回の生まれ変わり)して今日に至った。正しい見解をお示し助けて下さい」と懇願した。
そこで、この老人が百丈に同じ質問を問う。「禅の修行が良くできた人でも、因果の法則を免れることはできないのか?」。
百丈は即座に「不眛因果」(因果の法則をくらますことはできない)と答えた。
老人は百丈の言葉によって大悟し、礼拝して去った。その大悟にて野狐の身を脱することができたという。
この問答のあと、百丈は寺の裏山で死んだ狐を亡僧法に依って火葬した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーWikiからーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・こうすればこうなるというのが①の考え。後先考えずに今に没頭するのか②の考え。


目標は良いのか
・10年前の目標を捕らわれてもいいのか? でも、不安だから計画を立てる。最近はコンピュータに頼り、データ分析に走る。
・因果においてあまり先を考えすぎて生きていては打算的になるものの、「非眩因果」で近い先を考えて行動する必要はある。「不落因果」では人間が傲慢になり、堕落しやすい。
・業(潜勢力)は存在するので、不落因果はありえない。人は過去の自分とつながっている。特に近い過去の影響を受ける。


始覚にはじめ本覚に達する
・修行のきっかけを得て、修行して学びはじめる。それにより、自分が仏であることを気づいていくというのがあるべき姿である。